シルクロードの旅―7
9月14日(金)シェキ〜カズベク
AM5:30、起床。エアコンの件は、昨晩の所で書いたので、此処では書かない。
AM6:30、ホステルの庭で朝食。パンケーキ、ゆで卵、お茶。私の体調は大分回復しつつあるが、今一で、腹一杯食べる勇気はない。
今日は、アンドレアの誕生日で、朝から盛り上がっている。誰が用意したものか知らないが、大きなウサギの耳のようになった帽子をアンドレアに贈呈し、アンドレアは、嬉しそうにそれを自分の頭に乗せた。その帽子には、29と書いてある。29歳になったのだ。 アンドレアの誕生日(アゼルバイジャン)
AM7:00、出発。今日は、ジョージアへの国境越えだ。昨日のシェキでは、体調不良で一歩も外に出なかったのが残念だ。箱根マラソンに例えるなら、途中でレースから外れずに、付いて行っている、つまり、「襷が辛うじて繋がっている」と言う心境である。
AM9:00、トイレ休憩。熱いお茶を1杯。1マナット。 AM10:30、アゼルバイジャン側のイミグレーションに到着。 AM12:00、ジョージアに入国。両方併せて1時間半と言う短時間で済んだのは今回が初めてだ。ジョージアに入国したところで、昨日両替したばかりで、ほとんど残っている、30マナットと、50ドルを両替。
30マナット= 38.67ラリ 50ドル =128.90ラリ
AM12:30、小さな食堂での昼食。厨房を覗くと、注文を聞いてから食材の用意をしましょう、と言う感じで、何の準備もされていないようだ。皆はそれぞれ注文していたが、私は、カップラーメンをトラックバスから持ってきて、熱湯を注いでもらった。
調味料を控えめに使用してできあがったラーメンは、今の体調には丁度良かったようで、美味しかった。小さなボトル水を1本。1ラリ。
PM1:30、出発。車窓は、トウモロコシとブドウ畑が多い。日本でも見かけるような、緑と山が多くなってきた。我々は今、コーカサス山脈でのキャンプ場へ向かいつつある。 車窓(ジョージア)
PM3:30、ワイン工場へ立ち寄り、ワインとブランデーを試飲した。見上げるような大きなタンクが、数十本並んでいる工場内で、色々なワインを試飲させる。小さなコップではあるが、それで5、6回のワインと、1回のブランデーだから、結構な量になる。
私は全く飲めないので、私のコップに注がれた分は、全部アンドレアのコップへ移す。アンドレアの誕生日だから、そうしてやってくれとの、夫のキャメロンからの依頼でもあった。 つまり、アンドレアは、他の人の2倍の量を試飲しているのだが、顔色一つ変わっていない。「普段はどれ位飲むの?」と聞くと「毎日飲んでる訳ではないが、飲むときは、ウィスキーをボトルに半分位です」と言う。
試飲が終わると、販売所に誘導されて、思い思いのワインや、ブランデーを購入する。否、購入させられる?全部で、10本くらい売れたのかな?私は隣の売店でアイスクリームを1本。1.5ラリ。
PM4:30、出発。アルコールが入ったこともあって、バスの後ろ半分は、アンドレアの誕生日を祝して、若い人のパーティ会場になっている。スピーカーの音量を上げ、皆で合唱だ。スーザンも手を突き上げ、一緒に歌っているが、私は、知らない歌が殆どだから、静かに聞いていた。 アンドレアの誕生日パーティ(車内)
PM6:30、トイレ休憩。峠に差し掛かっているせいか、雨が降っている。久しぶりの雨である。これから本降りになるのか、止んでくれるのか心配である。
PM8:30、トイレ休憩。もう、キャンプ場に着いても良い時間なのに、まだ走るつもりなのか?
PM10:30、スタック!!トラックバスが坂道で泥道にはまって仕舞い、動けなくなってしまった。私は、既に夢の中にいたのを、急に起こされて「みんな、バスの外に出てくれ」と言われた。
今夜のキャンプ場まで来たのだが、そこが閉鎖されていて、別の場所を探している時に、起こってしまったと言う。トラックバスは、運転席を坂道の上に向けて止まっている。
坂道の下方に動ければ、そんなに難しくはないのだろうが、後ろには、大きな岩が転がっていて、殆どバックする余裕はない。雨と風が強くなってきたところでこの状況である。車外に放り出されたメンバーは、寒さに震え、誰彼構わず抱き合っている。
運転手のジョノは、何度かハンドルを切り直し、挑戦した後、そこから脱出することに成功した。しかし、時間も遅くなっており、ニンカは、今夜のキャンプは中止して、カズベクのホステルに宿泊することに決めた。
PM11:00、カズベクの町にある、ホステルとの交渉がまとまったらしく、我々はトラックバスから降ろされ、各部屋に入ることが出来た。私は、4人部屋であった。そして、「今から夕食の準備は出来ないが、スープなら出来ます」と言うホステル側の提案で、各自が希望のスープをオーダーした。私は、困ったときの1つ覚えで、ボルシチを頼んだ。
PM11:30、しばらく待って出されたボルシチは、短時間で作ったためか、煮込みが足りず、美味しいとは言えなかった。しかし、この緊急事態ではやむを得ない。
食事中、ジョノがこれまで10年間の間に経験した様々な事故を話してくれた。正確には理解できないが、中米や、南米、アフリカ、そして中国での出来事であった。それらにもめげずに、この仕事を続けているのだから、余程、彼の性に合っているのだと思う。
私は、今日の状況を念頭に置いた上で、「去年の旅程はどうだったのか?」とジョノに聞いた。ジョノの答えは「去年は、イランに行ったので今日のコースは走っていない」と言う。つまり今回が初めての経験だったのだ。
それにしても、今日の道程は国境越えに加え、走行距離が長過ぎたと思う。お茶を追加で所望したら、3ラリを請求された。
PM12:00、シャワー、就寝。長い1日がやっと終わった! 9月15日(土)カズベク
AM7:00、起床。ポメラ。 AM8:30、朝食。15ラリ。約700円。ホステルの朝食代が15ラリと言うのは、高すぎませんか?食パン、チーズ、ソーセージ、キュウリ、トマト、コーヒー。何も代わり映えがしない内容である。
おまけに、停電になったと言って、「コーヒーが作れません。水で良ければ持ってきます」と言う。私は、半分だけ食べて、後の半分はキャメロンに食べてもらった。まだそれほど食欲が出ないのだ。
ここのホステルからは、コーカサス山脈とその主峰であるカズベク山(5033m)の眺めがよい。日本での富士山に相当するであろうか。ある程度想像はしていたが、こんなに美しいところだとは、思っていなかった。 カズベキ山(ジョージア) 日本からは、不便な所なので、余り知られていないが、登山や、ハイキングの玄関口として、ヨーロッパからの観光客が、大勢押し寄せている。私も、もう少し元気な時に、出来れば若いときに来てみたかった。
ホステルは高度1700mの位置にあり、周囲が高い山に囲まれているので、天候が変わりやすく、気温の変化も激しいので、1日に何度も服装を換えねばならない。
ツアーとしては、今日は1日中、フリータイムである。元気な人は、日帰り登山に行く等、それぞれのスタイルで1日を過ごしている。私は、今日も、ホステルに籠もって、他の旅行者と雑談したり、ポメラを叩いて過ごしている。
今夜のキャンプは、この近くの別のホステルの庭先で行われる。そして、希望者は追加料金を払い、ホステルの中で宿泊が出来るという。追加料金が15ラリと安かったので、私は迷わず室内の宿泊を希望した。
AM11:00、新しいホステルに移って、最初は3人部屋を当てがわれたが、後から「3人組の客が来たので、ほかの部屋に移って欲しい」と言われた。私は、「分かりました」と言って、次の部屋へ行ってみると、なんとそこは、キングサイズのベッドがある、一人部屋! 一人部屋!(カズベキ)
この旅行では最高の部屋を当てがわれた。ホテルなら数万円は覚悟しなければなるまい。もっとも、シャワー、トイレは共用で、シャワーは温水が出ず、私は使わなかった。 町のインフォーメーションセンターが、このホステルの向かい側にあったので、行ってみると、そこには、美しい受付嬢がいた。色々話してみると、今晩お世話になるホステルの娘さんだと言う。小さな町なのである。
AM11:30、ポメラタイム。 PM2:30、少しお腹が空いてきたので、近くのレストランで食事をするべく外出。1軒目のレストランでは、「1人用の席はない」と言って断られ、2軒目のレストランでも渋々顔でやっと受け入れてくれた具合であった。
メニューを見て、豆スープと、トラウトのグリルを注文。22ラリ。豆スープは、私の期待に反して、あっさりした、サラッとした物ではなく、コッテリした、ドロッとした物であった。
トラウトの方は、良い具合に焼けている香りがして、期待が持てたのだが、何と言っても淡泊な川魚である。醤油を所望したが、「ここには置いていない。あるのはトマトソースだけである」と言われ、仕方なくトマトソースで焼き魚を食す羽目に!トホホ。
観光地に有りがちな態度だが、売ってやる、食わしてやる的な振る舞いが此処でも感じられ、私の此処に対する評価は、100点から一挙に50点へと急降下した。ペルーのマチュピチュと、そこに、世界中から集まってくる観光客を、手ぐすねを引いて待ち伏せしているレストランの態度を思い出してしまった。 カズベキの町
私の評価が低いからと言って、レストランの姿勢が変わるとは思わないが。それにしても、カズベクは世界有数の景勝地と言って過言ではなかろう。
PM4:00、ホステルへ戻り、ポメラタイム。 PM6:00、夕食。ジャガイモと骨付き鳥を、トマトソースで煮込んだもの。私は昼食時間が遅かったこともあり、少しだけ食べて終了。皿洗い等、後片づけをして自室へ。
PM8:00、就寝。シャワーを浴びようと、蛇口をひねったが、何時まで経ってもお湯にならず、諦めてベッドへ潜る。一人部屋にキングサイズベッドと喜んだのも束の間、これなら、お湯のシャワーを浴びられるドームの方が余程有り難い。
それにしても、此処、カズベクのホステルに置いてある枕はどうしてこんなに大きいのであろうか?前夜のホステルでもそうであったが、普段我々が使う枕の3倍くらいの大きさである。
それに比べて、ベッドの長さは、通常並であるから、枕が変に邪魔になるのである。枕をしなければ、姿勢が落ち着かないし、枕をすると、足が出てしまう。皆どうしているのだろう?
9月16日(日)カズベク〜トビリシ
AM5:30、起床。 AM6:30、朝食担当で、ニンカの指揮の元、朝食の準備。ジャガイモに、チーズ、卵、豚肉のミンチを加えて、炒めたもの。
AM7:00、朝食。ジャガイモが硬く、全体的に火の通りが足りなかったようだ。火力が弱かったのか、時間が足りなかったのか。皆は美味しいと言っていたが、お世辞か?私は、少しだけ味見をするだけにして、バナナを2本食べた。 夜明けのカズベキ山とサメバ教会
AM8:00、出発に先立ち、ホステルの追加料金15ラリを支払う。つまり、ホステルの庭先を借りて、テントに寝る人は15ラリで、この分はツアー会社の負担。私は、ホステルのベッドで寝たから、本来は30ラリなのだが、会社が15ラリ負担するから、追加の個人負担は15ラリで良い。と言う事であった。
一口にキャンプとは言っても、賃借りするキャンプ場と、無料のキャンプ場が有るわけだ。誰も居ない野原にテントを張る、いわゆる「ブッシュキャンプ」は、無料であろう。
トラックバスは、コーカサス山脈の中を、ジョージアの首都、トビリシに向かって走っている。この道路は「グルジア軍用道路」と言うらしく、大コーカサス山脈を越えて、トビリシとロシアのウラジカフカスを結ぶ約200kmのハイウェイのこと。 グルジア軍用道路の車窓@
1799年に帝政ロシア軍が軍事用に切り開いたもので、ロシアとコーカサスを結ぶ道として重要な役割を果たしてきた。同時に、大コーカサス山脈の風景は、昔からプーシキン、レールモントフと言った詩人たちを魅了してきた。
今日の走行距離は短く、峠の展望台に立ち寄ったり、崩れかけた古城を見学したりの、楽な旅程であった。私は、ジョアンナから「妻の和装を見たい」と依頼されていた事を思い出し、次女が送ってくれた写真をスマホで見せた。
我々の結婚式当日の誠に古い写真であったが、食い入るように見ていた。「これは、結婚式当日の写真ですか?とても素敵ですね!奥さんは、笑ってないのね!」と言う。次女の7・5・3と卒業式の写真については「可愛いわね!こちらは卒業式かしら?」と言っていた。
他の人にも、回覧され「貴方は幸運ですね、きれいな奥さんで」とニキータが言う。しかし、一目見たときは、誰の写真か分からなかったらしく、「これは、日本の伝統的な衣装ですか?」と言うだけで、我々の記念写真であることに気が付かなかったらしい。私の若い時と今の顔が余りにも違っていたからであろう。
海外に来て、その国の伝統的な民族衣装を見ると、それぞれに「民族衣装は、良いものだな」と、しみじみ思うが、同じ事を海外の人は、日本に来て感じているのだと思う。しかし、昨今の日本は、機能性に富む洋装化が進んでしまって、和装が見られなくなったことは残念なことである。
AM10:00、峠の展望台に到着。此処には巨大な壁画が建てられている。これは帝政ロシアが東グルジアのカルトリ・カヘティア王国を保護国化した200年記念に、1983年に建てられたものだ。 グルジア軍用道路の車窓A
モデルの撮影? 記念の壁画を見物に(グルジア軍用道路) AM10:30、城壁に囲まれたアナヌリ教会を見学。ここは、17世紀に建てられたもので、トビリシの水源となっているジンヴァリ貯水湖を望むところにある。 アナヌリ教会とジンヴァリ貯水湖(グルジア軍用道路) AM12:30、14世紀に建築された、崩れかかったベブリスツィ・フォートレス(Bebristsikhe
Fortress)を見学。坂道を数百m登ったところに建っているが、苦労した割に感動は少なかった。 ベブリスツィ・フォートレス(グルジア軍用道路)
PM2:00、トビリシのエンヴォイ(envoy)ホステル着。トビリシには独特の歴史があるようで、それは明日のシティ・ツアーの項で書く事にするが、近代化された町全体に、観光客があふれている。観光一色の町と言うのが、私の第一印象である。シルクロードとどのように結びついてくるのかが、興味の焦点である。
PM2:30、昼食。レストランならそこら中にあるが、余り歩き回りたくないので、近くのカフェに入った。アップルパイと紅茶を注文。10ラリ。暖かいパイで、美味しかった。食後、近所を散策したが、例によって土産物屋のオンパレード。興味を引く物には出会わなかった。
PM3:00、シャワータイム。ポメラ。 PM6:00、ポメラ終了。ベッドで横になりそのまま就寝。 PM12:00、目が醒めた時、寒さを感じトイレに。エアコンは22度を表示していた。受付に毛布を借りに行くと、庭先から元気なジョノの話声が聞こえてきた。私は毛布を掛けて寒さを凌ぎ、そのまま、寝続ける事、朝の6時まで。
9月17日(月)トビリシ
AM6:00、起床。12時間もベッドで横になっていると、さすがに腰が痛くなってくる。
ポメラタイムだが、電池切れだ。今回の旅行に合わせてアマゾンから購入したアマゾンブランドの電池は、全く用をなさなかった。充電しても直ぐに切れてしまう不良品である。受付に相談すると、机の中に有った物を取り出して、「どうぞ使ってください」と言う。有り難く頂戴して使わせてもらっている。
AM8:00、朝食。パン、ソーセージ、チーズ、キュウリ、トマト、お茶。食欲はないが、少しは食べておかないと。今日は、シティ・ツアーで、トビリシの町を2、3時間歩く予定である。
食べていると、9月7日にグループから離れたセブギが10日振りに元気に現れた!「どうして此処にいるのか?」と聞くと、「このホステルにいるのは偶然です。別れた後、私も一人で旅を続けています。但し、トラックバスは使っていません。一人旅の方が、何倍も時間を合理的に使えますので。今日も、これから直ぐに出発します」と言う。行動力のある、たくましい女性である!!
次にこの食堂に現れたのが、テリー!彼は、アゼルバイジャンのビザが取得できずに、9月8日から別行動であった。その後の様子を聞くと「トルクメニスタンの首都、アシュガバートからドバイ、バクー、トビリシと飛んできました」と言って笑っている。全くお金には屈託のない人である。彼は、今日から我々に合流することになる。
AM10:00、徒歩によるトビリシのシティ・ツアー開始。ホステルの受付嬢がガイド役である。今日、案内されたのは次の通り: 1,メテヒ教会とゴルガサリ像(トビリシ)
2,メテヒ橋(トビリシ)
3、ゴルガサリ広場(トビリシ)
4,ナリカラ要塞と聖ニコライ教会(トビリシ)
5,マリオネット劇場(ガブリアゼ作)(トビリシ)
6,シオニ大聖堂(トビリシ)
7,温泉浴場(トビリシ)
8,温泉浴場の奥にある崖(トビリシ)
9,温泉浴場の奥にある滝(トビリシ)
11,トビリシの町を俯瞰 12,ツアー仲間(トビリシ) ジョージアは、戦略的位置からも、複雑な歴史を経てきたが、未だにソ連との間で、小競り合いが続いている。ソビエト時代は、多くの教会は閉鎖されていて、観光客は全く入れなかった。 しかし、ソビエト崩壊後、宗教も復活し、教会も修復されて、今や多くの観光客を迎えるに至っている。トビリシは、さほど広くないところに、歴史的建造物が多く、トルコから流れてくる、ムトゥクヴァリ川(別名:クラ川)の流域に開けた町は、3方(川の両側と川上)を山に囲まれ風光も明美なため、観光客で溢れている。石畳の坂道が多いことは、ペルーのクスコの町を思い出す。 ムトゥクヴァリ川(別名:クラ川)トビリシ その昔、コーカサス山脈の険しい道を南へ南へと下って行った隊商たちには、トビリシが、まるで砂漠のオアシスのごとく思えたことだろう。マルコ・ポーロが「絵に描いたように美しい」と称えたそうだ。 ソビエト時代に、「シュワルナゼ」と言う外務大臣がいた事を私が思いだして、ガイドに話すと「彼は、ソビエト崩壊後、ジョージアの大統領になりましたが、自国のエネルギーを外国に売ってしまって、自国の国民は、寒い思いをしていました。彼のことを良く言う国民は居りませんよ」と言っていた。外からは、伺い知れない話である PM1:00、ホステルに帰着。9月13日(木)に倒れて、5日振りに歩いてみたが、疲れきってしまった。 PM1:30、昼食へ。昨日、美味しいアップルパイを出してくれたカフェに行って、野菜スープを所望したが、残念ながら思い描いていたものとは違っていた。野菜はドロドロに溶けてしまうほど煮込まれており、美味しくなかった。7ラリ。 PM2:30、下痢の再発!今日のシティ・ツアーによる久しぶりの長時間(3時間)歩行で、疲れたのが原因だと思う。残念ながら、まだ十分には体調が回復していないことが分かった。 PM3:10、2回目の下痢。 PM3:30、ポメラタイム。今から寝ていたら、肝心の夜に眠れなくなるから、起きてポメラに向かう。それに、座っている分には、体調的に問題はないからである。 PM7:00、夕食に、チキンラーメンを恐る恐る食す。 PM9:00、シャワーを浴びて就寝。 9月18日(火)トビリシ AM7:00、起床。 AM8:00、朝食。小さなパンケーキ、ソーセージ、キュウリ、トマト、コーヒーをゆっくりと食べる。今朝も、セブギに会う。「昨日は、朝8時半に出かけて、帰ってきたのは夜11時半でした」と元気一杯だ。食後、ポメラ。 AM10:00、このホステルの3階ベランダからの眺めが素晴らしいことが分かり、写真に納める。同時に、ベランダに付属して、誠に狭いオフィスがある事が分かった。そこには女性が2人(一人は昨日のシティ・ツアーのガイド)机を並べて、事務を執っている。 ホステルの3階ベランダからの眺め(トビリシ) ベランダに付属した狭いオフィス(トビリシ) AM10:30、今日は、体調と相談しながら、温泉浴に行ってみようと考えている。支度をして庭にでると、今朝から気になっていた小柄の婆さんが居た。挨拶をすると、にこやかに挨拶を返してくれた。 ドイツ人女性で、70歳位だろうか。今は旅行三昧の生活の様だが、一度話し始め、私が相槌を打ったら最後、話が終わらなくなってしまった。どこかで打ち切って、立ち上がりたいのだが、話が途切れないのだ。 私は暫くは我慢していたが、これでは終わりが来そうもないなと感じて、婆さんの話に割り込んで、失礼することにした。いつかのイラン人爺さんと言い、こちらが相槌を打とうものなら、これ幸いと話し込んでくる。ご老人は、それだけ話し相手に飢えていると言うことか。 AM12:00、温泉に到着。此処には、プライベート温泉と、パブリック温泉(男女別)があり、入浴料に極端な差がある。パブリック温泉は、3ラリに対して、プライベート温泉は、100ラリとか言っている。しかも、プライベート温泉は予約制だ。 昨日のシティ・ツアーのガイドの説明から、パブリック温泉を目指して行ったのだが、「此処は、プライベート温泉で、パブリック温泉ではありません。パブリック温泉は、ナンバー5です」と言って、遠くを指さす。ナンバー5を探しながら行くと、温泉場の一番外れにそれは存在した。 パブリック温泉No5(トビリシ) プライベート温泉(トビリシ) 私は、パブリック温泉の窓口へ行き、3ラリを支払った。窓口の婆さんは、面倒くさそうにそれを受け取ると、「階段を下りて行きなさい」と言う。階段の下には、男が立っていて「マッサージ?タオル?」と聞いてくる。私は予めタオルを持参していたので、両方とも断り空いているロッカーに向かった。 そこで素裸になり風呂場に向かう。風呂場には10本ほどのシャワーと、10人ほどが入れる風呂桶が1つあった。シャワーと風呂桶の間に2カ所の狭い空間があり、そこではアカスリマッサージが行われていた。 風呂桶には5、6人の男が入っており、私はお湯の感触を確認しながら、10分間も浸かって居たろうか。軽く硫黄の臭いがし、温泉であることを確信させるが、その他には特段の印象はない。 やはり、日本の公衆浴場の方が、衛生的かなと言う感想は持った。王様の気分を味わうには、100ラリの入浴料を惜しんではならないと言うことでもあろうか。ロッカー室へ戻ると、階段下にいる男が来て「もう終わったのか」と言って、ロッカーを開けてくれた。 PM1:00、昼食。キノコスープとパンを少々。キノコスープの味が薄かったので、娘が持たせてくれた旅行用のキッコーマン醤油をバッグから取り出して、スープに加えた。大分良い味になった。10ラリ。 PM2:00、ポメラタイム。 PM4:00、外出。ポメラ用の単4電池を購入。4本、4ラリ。旅行前に買ったアマゾンブランドの電池が用を成さないから。非常食用にバナナ3本、5ラリ。 PM6:00、自室でポメラに向かっていると、テリーとマーク夫妻が夕食に誘ってきた。今晩はインスタントラーメンで済まそうと思っていたが、折角の誘いだから、受けることにして外出。 ただ、彼らの食事は、ワインを飲みながらの懇談が主体になるから、飲めないし、流暢に話せない私が、一緒に楽しむことは難しいのが実状である。1軒目のレストランで、彼らはワインを、私は紅茶を飲んで懇談。10ラリ。 2軒目のレストランでは、私はチキンスープに水を、彼らは、水の代わりにボトルワインを注文。質量共に全く異なるものを注文しながら、彼らがボトルワインを飲み干すまで、お付き合いすることは、正直言って苦痛である。20ラリ。お陰で、ジョージアのお金はすっかり無くなった。 PM10:00、就寝。 9月19日(水)トビリシ〜アルメニア(セヴァン湖) AM6:00、起床。 AM7:00、朝食。 AM7:30、出発。若者5人は、昨日タトゥーを入れてきたと言って、足の指や、くるぶしに包帯をしている。「30分ぐらいで終わり、費用は50ラリであった」と。彼らの感覚は理解できないが、好きでやっているのだから、とやかく言うことはできない。 AM10:00、我々個人は、ジョージア側のイミグレーションと、アルメニア側のイミグレーションを通過。トラックバスの通過を待っていると、その間に、我々のバスとそっくりのトラックバスが、反対方向に向かって停車しているのを目撃した。 ジョノが向こうの運転手と握手をして談笑している。聞くと「我々の姉妹会社である」と言う。私は知らなかったが、同じように、シルクロードや、アフリカの旅を実施している会社があったのだ。 我々のバスと似たトラックバス(国境で) 待機中に両替をした。50ドル=24,000ドラム。1円は約5ドラムになる。 PM1:00、トラックバスが、イミグレーションを出てきたので出発。 PM2:00、世界遺産のハグバット(HAGHBAT)と言うモナストリ(男性の修道院)の見学。観光バスが次々に来ているので、由緒あるところだと思うが、「地球の歩き方」には紹介されていない。此処で初めて、アルメニアの貨幣を使用。トイレの使用料として100ドラム、約20円を支払った。 ハグバット・モナストリA(アルメニア) PM3:00、出発。トラックバスは、緑の多い山道を走っている。 緑の多い山道@(アルメニア) 緑の多い山道A(アルメニア) PM6:00、トイレ休憩。此処でも、100ドラムを支払う。小さな店で、小さな菓子パンを買う。200ドラム。太陽が沈み、標高が上がってきたので、冷えてきた。 PM7:00、今夜のキャンプ場であるセヴァン湖畔に到着。この湖はコーカサスでは、最大の湖で、ソビエト時代は、ロシア人の保養所として賑わっていたようだ。近くに大きなホテルが2棟建っているが、明かりは全く点いていない。今は使われていないようだ。 標高2000mの初秋は、冷気が厳しい。私はテントを張り、冬物の衣類を着込んだ。「明日ではない。今夜を何とか無事にやり過ごしたい」一心である。 PM8:00、夕食。薄いパン生地で、ミンチの炒め物を巻いたものと、インスタント・コーヒー。パン生地は、購入してあったものだから、今日の夕食は、ミンチを炒めただけで完成だ。道理で支度が早いと思った。 PM9:30、就寝。冬用のスポーツ・ウエアーを着て、自分の寝袋はマットの上に敷き、ミシェルから譲られた冬用の寝袋に潜り込む。ここまでしても、暖かさは感じられず、途中でトイレに起きた後は、マットの上に敷いていた自分の寝袋を、上から掛けてみた。その方が少しは増しなようであった。 9月20日(木)セヴァン湖畔〜エレヴァン AM6:30、起床。雨が降ったのかと思うほど、大量の夜露がカバーテントを濡らしていた。テントを撤収するに当たり、夜露を振り払うが、限りがあり、濡れたまま畳み込んでいく。 着衣は、冬物を纏っているので、陽が出てくれば、汗をかくことは分かっているが、寒い今は、このまま着ているしかない。後のことより、今をどう生き抜くかが優先される。 それにしても、こんなに寒い時でも、キャメロンは短パンにサンダル姿である。分厚い脂肪を蓄えているから寒さには強いのであろうか?自分と比べて、温度の感じ方が違いすぎる。 朝食の支度をしている時、体格の良い3人の60歳くらいのロシア人風の男が、我々の前を歩いて行った。3人とも、上半身は裸で腰にタオルを巻いている。二人はサンダルを履いているが、一人は裸足である。驚いたことに、数分後、彼ら3人はセヴァン湖に入って、泳いでいたのである!私には想像もつかない光景に驚き、目を見張るしかなかった。 AM7:00、朝食。トーストパン2枚とコーヒー。 AM8:00、出発。セヴァン湖畔を半周して、首都のエレヴァンへ向かう。湖畔の周囲には、人家や畑が散在し、変化に乏しい、のどかな風景である。 セヴァン湖畔A(アルメニア) 小さな箱根の芦ノ湖畔と比べても仕方がないが、関所、杉並木、温泉と変化に富み、近くに富士山まで配した、絵になる風景とは全く違っていた。外国人を箱根に招待すると感動すると言うが、さもありなんと思う。 AM10:00、峠のキャラバンサライ(隊商宿)に到着。こんな所にもキャラバン隊の宿泊所があったのだ。と感慨しきりである。旅人には、どんな所であれ宿は必要である。此処は、ラクダと人が一緒に寝泊まりしたかと思われるような造りで、アゼルバイジャンのシェキに存在した隊商宿とは大分異なる。 峠のキャラバンサライ・内側(アルメニア) 峠のキャラバンサライ・外側(アルメニア) キャラバンサライの在る峠(アルメニア) 風雪厳しい峠の宿は、キャラバン隊にとっては、命綱であったろう。建物の横では、バイクでたどり着いたと思われる男が、死んだような格好で寝ていた。 キャラバンサライの横で寝入る男(アルメニア) AM12:00、トラック・バスは峡谷へ入っていく。この国は石が豊富であると言うが、岩山が多い。それも赤みを帯びた岩石である。 赤みを帯びた岩石(アルメニア) AM12:30、ノラヴァンク修道院の見学。この修道院は、赤みを帯びた石で造られていることで有名である。此処に来て、ミニスカートのモデルの撮影が行われていたのには、違和感があった。トイレ使用料、100ドラム。 ノラヴァンク修道院@(アルメニア) ノラヴァンク修道院A(アルメニア) ミニスカートのモデルの撮影・ノラヴァンク修道院(アルメニア) PM1:00、出発。 PM1:30、昼食。ボルシチ、パン。1200ドラム。 PM2:10、出発。車道を牛の群れが埋め尽くしている。この国をどのように表現したら少しでもイメージが掴めるだろうか。面積は、九州を少し小さくした大きさと言うから、周りに海が無く、火山と温泉もない、岩山だらけの九州を想像してもらおうか。 車道を行く牛の群れ(アルメニア) 首都エレヴァンは、アララト山(5000m級)、小アララト山(4000m級)のすぐそばにありながら、それらの山はトルコ国に所属している。してみると、自慢のできる物は何もない!?シュメール文明のギルガメシュ神話にも見られる洪水伝説は、旧約聖書では、ノアの箱舟伝説として語られているが、その漂着先がアララト山とされる。 PM4:00、エレヴァン郊外にあるアルメニア教会の総本山、エチミアジンの大聖堂に到着。此処からは、大小のアララト山が見えているが、霞がかかっていて、写真写りは良くない。売店でアルメニアを紹介した本をめくっても、写真は、古い教会の類ばかりだ。 エチミアジンの大聖堂(アルメニア) アララト山(アルメニア) それも、ソビエト時代は、禁止されていたわけだから、その後の27年を掛けて少しずつ、修復し復活をしてきているのであろう。「この大聖堂は赤い石で造られているのが特徴である」と言うが、その赤にもムラがあって、真っ白な大理石で出来た、インドのタージマハールをイメージしていると、がっかりする。 PM4:30、出発。 PM5:30、エレヴァンの町に入ってきた。片道3車線の賑わいのある町である。ホステルに到着。此処のホステルは、ジョージアのトビリシで宿泊したホステルと同系列・同名(envoy)の宿である。一室に8人と詰め込まれているが、清潔で、必要最低限の設備は揃っている。ただ、インターネットがもう少し繋がりやすい状態であって欲しい。 PM7:00、シャワータイム。 PM8:30、夕食に出掛けるも、一人では心細く、近くの店で、バナナとブドウを購入して帰ってきた。800ドラム。 PM9:00、バナナ2本と、ブドウで夕食。 PM10:00、就寝。 9月21日(金)エレヴァン AM6:00、起床。ポメラタイム。 AM8:00、朝食。ホステルの朝食。パン、卵、ソーセージ、スイカ、コーヒー。 AM9:00、久しぶりに髭を剃る。長く延びてしまって、電池カミソリでは剃りにくいので、石鹸を付けてカミソリで剃る。切れ味が悪いと痛い! AM10:00、エレヴァンのシティ・ツアーに参加。ホステルの受付嬢がガイドである。 同室の30才くらいの女性も参加。話してみると、彼女はオーストラリア生まれのオーストラリア人だが、両親はベトナム人で、ベトナム戦争時に、オーストラリアに逃れてきた。 分かりやすい英語を話し、通常はソーシャルワーカーの仕事をしている。三姉妹の末っ子で父親は69才。まだ現役で働いてはいるが、とてもシルクロードの旅に出る元気は有りませんと言う。 今日のシティ・ツアー(エレヴァン)で、見聞したことは、以下の通り。 1、アルメニアは、コニャックが有名であり、外国にも輸出している。 エレヴァン・コニャック工場 2、ナゴルノ・カラバフ問題は、アルメニアとアゼルバイジャン間の領土問題として、解決の糸口が見えない。 3、アルメニアは150万人とも言われるアルメニア人を、トルコに虐殺された歴史(ジェノサイド)を持っているが、トルコはそれを認めず、それに関する紛争は解決していない。我々のツアーが、アルメニアから隣のトルコに入れず、再びジョージアに戻り、ジョージアからトルコに入国する理由がそこにある。 4、ソビエト時代は、全てをソビエトに管理されており、ソビエト崩壊から27年を経た今でも、何かにつけて、ソビエト時代の話が出てくる。現に、此処エレヴァンに建てられている主なビルの殆どは、ソビエト時代に建てられた物である。 5、アルメニアに置ける、キリスト教の歴史は古く、キリスト教を、世界で初めて国教として認めたのがアルメニアであった(西暦301年)。 6、赤く立派な消防自動車が共和国広場に停まっていた。車の横には「日本から寄贈された」旨の説明書きがあった。 7、「広島原爆敷石の碑」が公園に建っていた。これは平和を願う、広島の人が世界88カ国に贈呈したもの。被爆時に電車の敷石に使われていた石に、メッセージが刻んである。 8、赤みがかった石で建てられた建造物の多いこの町は、「ピンクの町」と呼ばれている。 9、独立記念日(9月21日) 10,バザール 11,聖サルギス教会 12,勝利の橋(フラズダン川の東側に建っている) 13,共和国広場とマリオットホテル 14,歩行者天国の目抜き通り 15,オペラ座 16,展望台(カスケード) AM12:30、ホステルに戻って昼食。バナナ、インスタントラーメン、ブドウ。 食後、私はホステルの受付で、「アルメニアと他の2カ国とは何が違うのですか」と不躾な質問をした。と言うのも、「コーカサスに置けるこれらの3国は、何れもその面積は、北海道並とか、アルメニアに至っては、九州より小さいのに、国家として存立している理由があるのだろうか?」と言う素朴な疑問が有ったからである。 此処に来るまで、この地方のことで私が知っていたのは、コーカサス山脈、カスピ海、黒海と言う地理的な事だけで、いわば何も知らなかったのである。 質問をされた青年は、驚いたような、呆れたような顔をして、「何もかもが違いますよ!宗教も、言語も、文化も」と言うではないか。私は、自分の不明に恥じ入りながらも、その違いについて聞いた。 その内容は概ね次のようであった。 言語:アゼルバイジャン語、グルジア語、アルメニア語 系列:アルタイ語(チュルク語)、南コーカサス語、インド・ヨーロッパ語 宗教:イスラーム教、グルジア正教、アルメニア使徒教会 文化:音楽やダンスの成り立ちも異なっている。 なるほど、宗教も、言語も全く違う国であったのか!だから、小さいながらも混じり合うことなく、その存在を主張しながら生きてきたわけだ。この状態に落ち着くには(まだ落ち着いてはいないが)色々なことが有ったのだろうなと、遠い過去の歴史に思いを馳せる。 3カ国合わせても、人口は2000万人に至らず、面積は本州にも満たない。そしてそれぞれの国が領土問題や歴史問題を抱えている。 1、ナゴルノ・カラバフ:アゼルバイジャンとアルメニア間の紛争 2、南オセチア:ジョージアとロシア間の紛争。ジョージアの北部に位置し、ロシアと国境を接する南オセチアは、ロシアの後ろ盾を基に、事実上独立している。 3、その他にアルメニアとトルコ間ではジェノサイドを巡る歴史問題が続いている。 こうして見ると、隣国間で問題を抱えてない国は無いのではないか。日本も中国、韓国、ロシアとの間に、領土問題を抱えているが、それは特別なことではないと思えてくる。 PM7:00、夕食。若者グループに誘われて夕食へ。トラウトのバーベキュー、パン、お茶を注文。4400ドラム。トラウトの注文を忘れていたようで、皆が食べ終わる頃に、私に催促されて気が付いたらしい。 出てきたトラウトは、それなりに料理されていたが、塩が強すぎて半分しか食べられなかった。高い料金を支払っても、満足できないことが多過ぎる。 PM9:00、シャワータイム。ネット状況が悪く、日記を家族に送れない。就寝。 9月22日(土)エレヴァン AM6:00、起床。風邪を引いたからか、夕食の塩分が強かったからか、喉が痛い。一難(下痢)去ってまた一難か?ポメラタイム。 AM12:00、鼻水が止まらない。皆はそれぞれに出掛けているが、こんな状態では、出掛ける気にもなれない。薬局へ行って、ビタミンCのタブレットを購入。400ドラム。ミニスーパーへ行ってバナナ、リンゴ。600ドラム。水、菓子。1000ドラム、を購入。 AM12:30、昼食。バナナ、菓子、ビタミンC。バナナはまだ硬かった。 食後は、ベッドで横になる。鼻水が流れ出てこないのは、唯一、仰向けになって寝ている時だけだから。 PM6:00、夕食の買い出しに。菓子パン2個、キュウリのピクルズ、1450ドラム。 本日、若い連中は「アルメニア人虐殺博物館」等の見学に行ったが、私は殆ど横になって過ごす。 PM9:00、シャワーを浴びて、就寝。 9月23日(土)エレヴァン〜ヴァルジア AM5:00、起床。鼻水はまだ止まらない。 AM6:30、朝食。パン、ソーセージ、トマト。 AM7:00、出発。テリーが、我々を見送っている。どうしたのかと聞くと「昨夜のレストランにバッグを置き忘れてきたから、それを取って、後からタクシーで追いかける」と言う。人の良い、明るいオジサンだが、何処か抜けている。ビザが不備で遅れた件の2回を含めると、後から追いかけてくるのは、これで3回目だ。 早朝のアララト山(アルメニア) エレヴァンの町を出たトラックバスの車窓から見える景色は、牧草地である。時折り、牛、羊、山羊等の群を目にする。 AM11:00、アルメニアのイミグレーションを抜け、ジョージアのイミグレーションを抜けるのに、僅か1時間しか掛からなかった。再入国だからであろうか、トラックバスの手続きも短時間であった。 AM12:00、アルメニア通貨の残金を、ジョージア通貨に両替。7000ドラム=32.20ラリ。国を跨ぐ度に、日本円に換算するのに、5で割ったり、50倍したり、目まぐるしく変化する。車窓からは、コウノトリの巣が頻繁に見えた。 コウノトリの巣(ジョージア) PM1:00、昼食。近くの食堂で、写真を見て食べられそうなものを注文した。パンの上に目玉焼きが乗っている様に見えたが、出てきたのは、パンと目玉焼きの間に大量のチーズが置かれていた。そして、このチーズのショッパイ事!半分も食べずにギブアップ。同時に頼んだコーヒーは、3倍に薄めてもまだ濃いと感じるような濃さで、何れも残念でした。6ラリ。 PM2:00、出発。 車窓(ジョージア) PM4:00、ヴァルジア(Vardzia)遺跡に到着。ここも、「歩き方」では紹介されていない。クラ川沿いの絶壁に沢山の洞窟(100カ所前後)が掘られており、多いときは5万人が住んでおり、中国で見学した、麦積山石窟を思い出させた。見学料、7ラリ。コーラ、2ラリ。 ヴァルジア遺跡A(ジョージア) ヴァルジア遺跡B(ジョージア) ヴァルジア遺跡C(ジョージア) ヴァルジア遺跡D(ジョージア) ヴァルジア遺跡E(ジョージア) PM5:30、見学から戻ってくると、ジョノと4人のポーランド人が、トラックバスの修理をしていた。4人のポーランド人は2組の夫婦で、ポーランドから観光に来ていた。たまたまジョノが、調子の悪い箇所を点検しているところを見かけて、声を掛けてきたらしい。 トラックバスの修理(ヴァルジア遺跡) と言うのも、彼らはポーランドで輸送会社を経営していて、このトラックバスと同じトラック(SCANIA製)を7台持っていると言うのだ。 エンジンのチェックをしていると、このまま気が付かなかったら、大事に至る部分がある事が判明し、母国・ポーランドの、エンジニアとネットで映像を見ながら指示を仰いでいた。修理は首尾よく終わったようだ。 二人のポーランド人男性は、謝礼も受け取らずに今夜の宿舎に帰って行った。ジョノとしては、同時に我々にとっても、大変な幸運に巡り会ったわけだ。二人の妻たちも終始にこやかな笑顔で、修理の成り行きを見守っていた。 私が日本人だと知って、より空気が和んだことも付け加えておこう。何処の国へ行っても、私が日本人だと分かると、急に親しげな親睦感を持った笑顔に変わるのは、嬉しいことである。これは、これまでの日本が陰に陽に積み上げてきた日本に対する信頼だと思う。有り難いことである。 PM7:00、キャンプ場を、当初の場所から、この駐車場に変更して夕食。マカロニ、トースト、サラダ。控えめに食べる。 PM8:30、冬服を着込んで就寝。今夜の地面は、石畳である。 |